活動記録/Activities

第4回研究会
日時 2007年11月23日(金)13:00〜18:00
場所 東京外国語大学 本郷サテライト7階

プログラム
発表者1  八木祐子さん(宮城学院女子大学)
題目    「北インド農村におけるシングル女性とセクシュアリティ」

発表者2  馬場 淳さん(東京都立大学大学院)
題目    「パプアニューギニアにおけるシングル化の文脈
       ―法と日常の世界を往還する女たちの事例から」

【発表要旨】

「北インド農村におけるシングル女性とセクシュアリティ
   ――寡婦を中心として」
                              八木祐子


 本報告では、北インドにおけるシングル女性、とくに寡婦の社会的・文化的位置づけを身体やセクシュアリティー、行動規範の観点から考察した。調査地域は、ウッタル・プラデーシュ州東部のアザムガル県の農村で、上位層のブラーマン、タークル・カースト、中間層のヤーダヴ・カースト、下位層のチャマール・カーストなどのヒンドゥー教徒が多く住む地域である。女性は、結婚によって、身体表象が大きく変化する。髪を長く伸ばし、シャルワール・カミーズからサリーに変わり、腕輪などの装飾品を数多く身につけ、髪の分け目には、既婚女性の印として赤いシンドゥールという化粧粉をつける。一方で 、寡婦は白いサリーを着て、シンドゥールや腕輪などの装飾品は、一切身につけない。儀礼にも参加せず、静かに暮らすことが求められる。
このように、女性がライフ・ステージによって、身体表象や行動規範を変えることが要求される背景には、「熱」・「冷」という、身体についての観念が大きく関わっている。女性は、シャクティという生命エネルギーを男性より多くもつので身体が「熱く」なりやすく、結婚することによって、セクシュアリティーが適度にコントロールされると考えられている。また、調査地域では、「吉」・「凶」という観念もあり、未婚女性、既婚女性、月経中の女性、妊娠中の女性など、生殖能力をもち、家やリネージの繁栄に貢献できる女性が「吉なる女性」として捉えられ、それと反対に、寡婦や不妊の女性は家やリネージの繁栄に関わらないため、「凶なる女性」とみなされる。
 若い寡婦は、セクシュアリティーを管理する夫がいなくなったため、シャクティが多く身体が「熱い」ので、性欲が強く、社会にとって危険な存在と認識される。したがって、白いサリーを着て、冷たいものを食べ、身体を冷たい状態にする。「凶なる女性」として儀礼にも参加せず、静かに暮らすことが要求される。高齢の寡婦は、年をとって「冷たい」状態になっているので、それほど危険ではないと考えられている。このように、寡婦は期待される行動や身体表象が明確に決まっており、寡婦をめぐる状況は過酷なものであった。
 90年代の経済自由化政策や消費経済の浸透などにより、農村社会においても、寡婦をとりまく状況は大きく変化している。報告のなかでは、腕輪をつけ、色柄物のサリーを着て、儀礼にも参加するという30代の寡婦が起こした騒動をとりあげた。若者の教育レベルがあがり、行動範囲が拡大するとともに、とくに女性自身の意識が変化している。そのなかで、再婚しないという選択をする寡婦もみられ、新しい生き方が模索されている。最後に、「吉」・「凶」をめぐる観念やジェンダー規範の変化、人々の揺れ動く価値観について考察した。今後は、都市の女性やイスラーム教徒の女性についても調査をおこないたい。

パプアニューギニアにおけるシングル化の文脈
    ――法と日常の世界を往還する女たちの事例
                                馬場 淳

 
本発表は、パプアニューギニア(以下、PNG)のマヌス島クルティ社会を対象に、日常的生活世界と法(裁判)の世界を往還する女性たちの実践を具体的に検討し、その上で「シングル」性の発現を明らかにする。具体的に焦点を当てる法の世界とは、離別や遺棄に伴い、シングルマザーが扶養費――自らの生活費や子どもの養育費の総称――を請求する裁判である。
 発表者は、まずシングルのイメージや概念を、セルフ(self)や個人性(individuality)に関するこれまでの研究成果のなかで捉えるという方法論上の戦略をとる。つまりシングルを、個性、実名性、エイジェント、制度の批判者/改革者、自意識、利己的な関心、孤(独)、反社会性、知縁・結縁といったさまざまな属性や基準を通じて概念化するわけである。
シングル性の発現を問題にしようとするのは、実のところそれがクルティ社会、一般的にはPNGにおいて決して自明なものではないからである。人は、つねに親族やコミュニティという人間関係の網の目に埋め込まれており、機能主義的な言い方にすぎるが、その生活/人生は他者との関係と相互行為の連鎖と不可分にある。他者との濃密な関係と絶えざる相互行為で満たされた日常的生活世界のあり方は、たとえ単身者(例えば、シングルマザー)と呼ばれるような人にあっても、「孤」という状況を生み出さず、シングル性の発現をつねに/すでに抑止するのである。
 その一方で、近代型裁判の扶養費請求訴訟では、裁判のスタイル(当事者対抗主義)と相即して、シングル性が表出する。女性たちは、自律的な個人として、しかるべき手続きを行い、法的主体となり、法廷で自らの主張をぶつけ、「闘う」。ここにおいて、彼女たちは日常的生活世界の人間関係から一時的に切れ、規範的相互行為の連鎖を否定し、「私一人」という感覚を抱く。ただし現地の「社会的なるもの」から逸脱した強烈な個性・自意識や明確な輪郭をもつ自律的な個のあり方は、訴訟という法的=近代的行為を通じて現出するのであり、その意味ですぐれて構造的な産物であるという点に留意したい。
もっとも、他者との関係から切り離された、確固たる自律的行為主体として存在する個のあり方が、植民地化からはじまる「近代」の領域の創出とともに出現した、逆に言えばそれ以前にはなかったと断定すべきではない。しかし近代型の扶養費請求訴訟が、普段は日常的生活世界の自明性のなかに埋もれたシングル性を如実に発現させる決定的文脈/モーメントとなっていることは確かであろう。
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