活動記録/Activities

第9回研究会
日時 2008年12月20(土) 13:30~18:00
場所 東京外国語大学 府中

発表者1 藤原久仁子さん(大阪大学 研究員)
 「シングル」になれない社会―カトリック・マルタの事例から

発表者2 棚橋訓さん(お茶の水女子大学)
 浜の単独者の系譜―ポリネシアのビーチコーマー

↓要旨

【発表要旨1】「シングル」になれない社会:現代カトリック・マルタの事例から
   藤原久仁子さん(大阪大学 研究員)


 本発表では、カトリックにおけるシングルについて、シングルに対するサポート・グループの活動(事例1)と平信徒組織でありながら独身制を課しているグループ(事例2)を取り上げ、検討を行った。
 カトリックは離婚を認めておらず、マルタの場合イタリアと異なり民法上も離婚規定がないことから、国内で離婚することはできない。とはいえ、カトリック法は別居を認めており、カトリック教会で結婚した4組に1組が別居に至っている(2000年度統計)。また、シングルマザーは近年増加傾向にあり、2000年は10.6%、2007年度は19.8%を占めている。
 このような状況下で、マルタにはシングルをサポートするグループの運営団体が二つある。ひとつはCana Movementで、(ア)別居中の人、(イ)未婚のシングルマザー、(ウ)孤独を感じている人を対象にした3つのサポート・グループが運営されている。彼らはこれらの人々に対して「トラウマを持たせないため」に活動を行っているという。
 もう一つの団体であるCaritas Maltaは、寡婦、寡夫、別居中の人のためのサポート・グループを運営している。ただし、Caritas Maltaの場合、他の活動の影響から弱者救済のイメージが強く、多くのシングル者は明るいイメージのあるCana Movementのサポート・グループに入ることを希望している。このため、別居中の夫婦はどちらが先にCana Movementのグループに入るかでもめることになる。
 本発表では、法的にはカップルでありながら実態はシングルとして生きる別居中の夫婦、法的にはシングルマザーでありながら実態は子供とその父親とともに生きる「シングル」女性、家族がいながら友人がいないためにいつも一人=シングルであると感じている孤独者を取り上げ、何が「シングル」かという問いを投げかけると同時に、社会規範に逸れているようで実はカトリックの規範に沿った生き方を彼らなりに試みている様を描くよう努めた。たとえば、シングルマザーの場合、婚前交渉を行ったことはカトリック倫理に反していると彼女ら自身も認識しているが、一方で婚姻の秘蹟も重んじているため、子供がいる/できたことを理由に結婚しようとはしていない。本発表では、「わたしの名によって、2,3人が集まるところに、私もその中にいる」(マタイ18・20)ことから、イエスや友人たちを常に身近に感じている独身の共同生活者たち(事例2)の例と合わせて、さまざまなかたちの「シングル」とその多様な生のあり方について考察を行った。


【発表要旨2】「浜の単独者の系譜―ポリネシアのビーチコーマー」
     棚橋 訓さん(お茶の水女子大学)


 18世紀末から19世紀初頭の時期、航路開拓、探検、交易、布教などの目的で多くのヨーロッパ人が太平洋を訪れた。その多くは必要な任務を果たしたのちに、太平洋を離れて帰路に就いた。しかし、一方では、任務の途上で船下することを決心して、太平洋の島に居残り、そこを新たな生活の場に選ぶ下級船員たちも少なくなかった。また、意思を以って下船したものだけではなく、難船者や漂流者として、太平洋の島にたどりつくものたちもいた。
 既知の世界とヨーロッパ人であることを捨て、孤高を生きようとした人々。船から島の浜に一人降り立った後に、そこに留まることを選んだ人々。船から島の浜に一人降り立ち、図らずも、そこに留まることになった人々。その理由はさまざまだったが、彼らはビーチコーマー(beachcomber)と総称された。上記の時期で、多いときには数千人規模のビーチコーマーがポリネシアに居たとも推定されている。
 ポリネシアの島に到着するまでの船上の日常生活では、船長を頂点とする特権のシステムが常に有徴化され、船上生活を安定して維持するために役割と地位の区分を明示する「境界線」が、そこかしこに張り巡らされていた。船という制度の中では、だれもが非人格化され、暴力も日常茶飯事であったといい、役割と規則がすべてを支配していた。
 一方、船が立ち寄る港や浜には船上と異なる規則(あるいは、船上の規則の執行停止)があった。港と陸地は船の境界を越えたところにあり、さらに船と陸地の間に浜があった。港では船上の規則が通用しなかったが、船乗りたちは港で全くの自由を享受できたわけではなく、港という別の場所での別の規則に従う必要があった。ところが、浜は違った。船乗りたちは浜では自由であるとともに、いずれのカテゴリーにも属することのない存在となった。
 ビーチコーマーとはどのような存在だったのかに思いを馳せることは、人は単独者としていかに在り得るのかという問いに対する解答に接近する手立てとなる。ビーチコーマーとなったヨーロッパ人は、船上のヨーロッパ人から(ビーチコーマーが捨ててきた世界から)みれば、「反逆者」であると同時に「自由」を享受するものでもあり、「善」であり「悪」でもあるような両義的な存在であった。船上の規則が及ばず、慣れ親しんだ文化的・社会的サポートの一切が欠落したような危険な場所に身を投じた真の冒険者でもあった。ビーチコーマーは、浜ではもはや船乗りでも、夫でも、そうした役割の集積が醸し出す「男」ですらない。そして、曖昧な境界的領域である浜では、島のネイティヴとの遭遇があり、そこでネイティヴの身振りを読み、視覚的な色や形の情報から島の「権力」「階級」「ジェンダー」等々の流儀を理解しなければならない状況に身を置くことになる。浜では、ネイティヴの視線が注がれるなかで、ビーチコーマーは「新たな世界」に見合った役割を引き受けるより他はない。それ以前に彼らが自己を定位してきた価値・判断・感覚の証のすべてが相対的なものでしかないという現実への直面は回避し難く、自己成型の試行錯誤の連続を余儀なくされる。
 而して、浜という境界的で周縁的な空間でのビーチコーマーの経験は特異なものなのであろうか。確かに、船から浜に降り立ち、そして浜から島の内陸に足を踏み入れるという一連の行為は劇的な世界の転換過程をはらんでいる。しかし、浜においてだけではなく、どこにあっても、生きることは境界的領域に足を踏み入れたり、越境を繰り返すようなtransformationの流れなのかもしれない。とすれば、ビーチコーマーという単独者の生は特異な経験なのではなく、むしろ、われわれの生の営みが単独者の系譜に連なるものだと理解することが妥当なのかもしれない。


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